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◇​

「西暦2027年7月16日に発見され、全世界で氾濫を引き起こしたウイルス性感染症の公称を

 β症候群と言います。β症候群の正確な症状を答えられる方、手を挙げられますか」

「はいっ!」

「おお、きょうも早いですね。それでは白宮のぞみさん、どうぞ回答お願いします」

「まず、第1症状は重篤な嘔吐、吐血、筋肉痛をともなう極度の体調不良で、致死率は100%です。

 次に第2症状が超自然的能力の獲得ですね。例としては超能力や魔法が挙げられます。

 加えて第3症状の『無症状』もあり、現行人類の大半がこれに属します。またβ症候群の発生率ですが、

 過去の統計では人口約1億2千万人の国家において、1年で約5千万人の報告があったとされています」

「正解です、白宮のぞみさん。一部2年の範囲の補足をしていましたが、どこで覚えたのですか?」

「私の孤児院にそれらしき本が置かれていました。確か2次史料だったはずです」

「そのような物が……ですが今は授業ゆえ。では皆さん、次は教科書の5ページを開いてください」

 

4時間目、歴史の授業にて、問答の終わりと同時に教室が沈黙に包まれた。

自らの席に座った白宮のぞみに対して教室中の生徒が視線を寄せ始める。彼ら、彼女らの少数は憧れるもの、嫉妬心を持つものであり、そうでない大多数の生徒は「すごい」という理由で目を向けるだけの平凡なものであった。

のぞみに視線を向けるものの1人として、佐藤理恵は少数の側に寄った生徒である。

「すごいすごい、登校始まってからまだ数日だよね? さっすがだー白宮さんはーっ」

 

隣の席に座る白宮のぞみの横顔を眺める佐藤理恵は、肩までかかった黒の長髪を椅子の背に掛けながら誰にも聞こえないようにそうつぶやいた。もし話しかけたとしてうまく話せなかったらどうしよう、もし突っかかられたら怖いなと付け加えて。

理恵は人と話すのが不得意で、物事が悪化する方へ考えを向けてしまう癖がある。休み時間になったら話そうと思い立って4日が経った今でも、理恵はつぶやき以外の声をのぞみに向けることができていなかった。

自らの内気さに理恵は肯定的ではない。まだ再会できていない1年先輩の「あの人」どころか、隣の席ののぞみが相手でさえ未だに何も言えていないのだから。

 

「……うん。メモ、とっとこうかな」

 

理恵は教科書に手をつけることなく、机の上にある小さな四角形の木箱へ右手を動かし、木箱から鉛筆を取り出す。

鉛筆を握った理恵は自らのメモ帳にのぞみの回答内容となる「β症候群」の概要を書き写したあと、再びのぞみの方を向き、今度はのぞみの机を見る。机の上にはびっしりと文字が書かれた1枚のメモがあり、理恵のものと同じ形の木箱にはメモ帳の束が入っていた。

メモ帳は馬車に乗った行商人の商品で、農作物と交換しなければ手に入らない代物だ。貧乏な農家出身の理恵にとってメモ帳は貴重品である。そのメモを束で持っているということは裕福な家に住んでいるのだろう。理恵は数日前とまったく同じ思いを抱いたまま椅子から身を乗りだすと、椅子ごと体を傾けてのぞみのメモを眺め始める。

 

「白宮さんの字、きょうも汚くて読みにくいなぁ。えーと……あっ、大きい文字はわかったかも。

 リアリティスター・ノヴァ、メンタル・ワン……ああ、あたし知ってるけどやってないよ……」

 

RPGの名前じゃん。しかもメンタル・ワンの方は割とマイナー寄りな奴だ。いや、そもそも今のご時世で「あの人」以外にゲーム機なんて持ってる人いたんだ。理恵は心の中でそう付け足し、小声でつぶやきながら10秒ほどを使ってメモに書かれたいくつかの内容を把握する。

メモの大文字の部分には崩れた字で「リアリティスター・ノヴァ、部活で遊ぶ」と「メンタル・ワン、頑張ったからきょうはお休み」と書かれていた。

理恵はメモを見ながら精一杯をふり絞って明るい表情をしようとする。少しでものぞみのことを知れば今度はうまく話しかけられるはずなのだ、と。自分でも必ずできるはずなのだと一心に思って。

 

「……はい、4時間目の歴史の授業はこれで終わりです。次は休み時間となりますので、

 食事をとって英気を養い次第、13時40分以降の授業、5時間目の準備を整えておきましょう」

「大丈夫、まだ全部読んでない。何か、何かひとつでも取っ掛かりが掴めれば……っ。

 ……あたし、このままじゃ駄目だ。やっぱり、変わりたいよ、あたしだって……っ、わ、わっ!」

 

4時間目が終わるという教師の言葉も聞くことなく、理恵はメモの小文字を把握するために更に椅子を傾けようとして、数秒経たず体勢を崩す。

理恵は目を閉じたまま、ふらつきながら横転する椅子から飛び退く。直後に椅子と床が激突してガシャンと大きな音が鳴り、一瞬遅れてチャイムが教室中に響いた。

チャイムを聞いた理恵は息を荒げながら急いで椅子を元の位置に戻すと、誰の視線にも気づくことなく再び椅子に座り直す。

教師の「起立」の言葉が教室にこだました。教室の中で1人、理恵だけが気が気でないままに。

生徒達が教室の扉を開けて廊下へ出ていくまでの数分間、理恵は椅子の上でぼんやりとしながら焦点の合わない目でのぞみの歩く姿を見つめ続けていた。

突然、自らの視界にのぞみではない、藍色の髪をした少女が現れるまでは。

 

「はじめまして、立花蘭です。隣、よろしいでしょうか?」

「ほっといて。今のあたし、自分どころかあなたにも酷いこと言ってしまうよ」

「構いません。私、ちょっとだけお節介をする為にここに来たんですから」

「どういうこと?」

「あなた宛に、のぞみちゃんからの伝言があります。内容は……

 『休み時間、食堂で待っています。よかったらぜひ話しかけに来てください』ですっ」

「……っ。それ、ほんと、なの……?」

「はいっ」

 

立花蘭と名乗ったその少女は、少し前までのぞみが座っていた椅子に腰を掛け終えると、理恵の顔を見据えて言葉を紡ぎ始める。その言葉と視線に押されるように蘭に耳を傾けた理恵は、言葉を聞き終えると同時にかたかたと手足を震わせ、頭を抱えてうつむいた。

純粋な、打算も何もない本心からの言葉。「行きたい」と言えば楽になれると確信までして、理恵は頭を上げながら声にならない返答を繰り返す。

3回。4回。深呼吸を挟んで、5回、6回。右と左の頬を涙が伝っても理恵は繰り返し続ける。

「あの人」と笑って話していた中学のころの自分を懐古して、内気になってしまった今の自分ではうまくいかないだろうな、と心のどこかで納得しながら、その納得に反発するように。

 

「は……っ。し……白宮さん、がっ、あ、あたし、に……」

「はいっ。きょうののぞみちゃん、珍しく……本当に珍しく、周りの人を気にしていて。

 それで自分から話しにいくのも難だからって、私に仲介をやってほしいって頼まれて……」

「あのっ! そ、それに答える前にあたし、言いたいことがあって!」

「……聞きましょう」

「あたし、怖いんだ。人と話すことだけじゃなくて、白宮さんみたいな人に会うことも……」

「……だったらっ。だったら、私と一緒に行きませんか? ふたりなら怖くなくなりますからっ」

「あっ、あ……ありがと……っ。それならあたし、頑張れるかも……!」

 

上ずった、吐き出すような理恵の声を聞き届けて、蘭は椅子から立ち上がる。

微笑みながら1歩、1歩と少しずつ自分に近づく蘭の姿を見て、震えるままに差し出した理恵の右腕が、がっしりと蘭の左手に掴まれた。

 

「ほら、食堂でのぞみちゃんが待ってますよっ!」

「ちょ、急に腕掴んで……引っ張らないでよ! ああもう、きょうずっと調子狂ったままだーっ!」

 

蘭の腕に引っ張られるまま、理恵も教室の扉から廊下に出る。生徒達の視線を意に介さずふたりは廊下を駆け抜け、校庭を経由して第2校舎に入っていく。理恵の体の震えは既に収まっていた。

第2校舎の廊下まで来たふたりの視界に3枚の扉が映る。右手側にあるその扉の上には「食堂」と書かれた木の板が貼られていた。

食堂の扉を開けた蘭が足をスキップさせながら室内へ向かったのに対して、理恵は蘭の動きを追って、自らの体を昔のロボットのように1歩ずつ動かして食堂の中へと歩いていく。

食堂の中は殺風景であり、縦軸、横軸ともに等間隔に置かれた碁盤目状のテーブル群と、ふたりの視界の正面にある「食事配給所」と書かれたのれんを除いて目立つ物は何もなかった。

「のぞみちゃんはあっちの隅っこで待ってくれてます。佐藤さん、準備はできましたか?」

「……うん」

「よし、ではのぞみちゃんのところまで行きましょう」

 

コンクリート造りの壁を眺めながら、理恵は蘭の言葉に肯定する。

室内の南東の端、のぞみが待っているテーブルに向かって、ふたりは元々は真っ白だっただろう色あせたタイルを歩く。20秒ほど歩き続けたふたりの前にのぞみの後ろ姿が映ると、蘭は立ち往生する理恵を横目にのぞみに声を掛けた。

理恵の方に振り返ったのぞみを真正面から見て、理恵は自らの顔を両手で覆う。

制服越しでも判別できる痩せた体と、体に見合わない筋肉質な細腕。その体つきは理恵が想像する裕福な家の少女とは明らかに違っていた。

 

「のぞみちゃん、連れてきましたよ」

「感謝します、立花さん。……はじめまして。RPG部所属、部長の白宮のぞみですっ」

「はっ……はじめまして。佐藤理恵ですっ。あの、RPG部って何? 聞いたことないんだけど」

「RPGを遊ぶ楽しい部活ですっ! ……非公式ですし、部員は私と立花さんの2人だけですけど」

「そうなんだ。……あたし、それ、ちょっと興味……いや、何でもないっ」

「ささ、2人ともどうぞ椅子に座ってくださいっ。昼ごはん、しっかり3人分ありますよっ」

「あの……あたし、白宮さんの正面の席はまだちょっと……」

「なら、私が正面の方に座りますから、そちらはのぞみちゃんの横の方に座っていいですよ」

「……わかった。ほんと、ありがと」

 

顔から手を放して何とか挨拶を終えた理恵は、のぞみの横の椅子に座り始める。

それを見た蘭がのぞみの正面の椅子に座って「いただきます」と言うと、のぞみと理恵も蘭に追随して「いただきます」と宣言した。

テーブルの上には3人分の昼ごはんと食器が置かれている。ひとつは塩、こしょうとハムが抜かれた簡素なポテトサラダで、もうひとつがニンジンとキュウリが数本入っただけのスティック野菜。最後のひとつが茶碗に半分しか米が入っていない1杯の白米である。理恵はそれらの料理を見てきょうも豪勢だなと感想を抱きながら、丁寧にフォークを持ってポテトサラダを食べだす。

 

「ん、ごくり。……佐藤さんの好きなもの、聞いていいですか?」

「いいよ、白宮さん。今は好きなこと何もないけど、昔はあったから。……ガイアブレイダー。

 あなたなら知ってると思う。あたしが中学の時、先輩の……あの人の家で遊んで、楽しかったんだ」

「ガイアブレイダー……! 90年代の有名な2DアクションRPGじゃないですか!

 良いゲーム遊んでますねっ。立花さんの家には機体もソフトもないですから、うらやまですっ」

「ちょっとのぞみちゃん、何言ってるんですか」

「あ、あはは……」

 

食事中、のぞみと会話を始めた理恵に怯えの表情はなかった。

中学3年生に進級したあの日を最後に、理恵は家族以外の誰ともまともに話したことがなかったというのに、のぞみとの会話が弾むことに理恵は少しの困惑と嬉しさを感じていた。理恵はのぞみに対して、不思議と関係が悪くなる方に思考を働かせられなかったのである。

3人はそれぞれ思いのままに話し続け、20分ほどを掛けて昼食を完食する。食器を持つ前に理恵が周りを見渡すと、食堂の扉から廊下に向かう生徒達の集団が見えた。そして、その集団の中に――

 

「っ!! 刀子先輩っ!!」

一瞬だけ、鮮やかなオレンジ色の長髪をした「あの人」――朝霧刀子の後ろ姿が見えて。理恵は食器の返却を後回しにして、のぞみと蘭の制止も振り切ってまで、刀子の後ろ姿めがけて全力で駆けだした。

さとう りえ

​あさぎり とうこ

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