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夏暮れの夜空に星は瞬いた

視界は見渡す限り漆黒であり、手足の感覚は朦朧としていた。

黒一色の景色のなか、焦点の合わない目で正面を見つめる。すると視界にうっすらと「誰か」の姿が映った。

漆黒に染まらない灰色の輪郭で囲まれた「誰か」の姿を私は見つめ続ける。目的もなく、あてもなく、時間をかけて私の意識が浮上すればいいと考えながら。なのに、いつの間にか私の前に立つ「誰か」は鮮明なほどの色彩を纏った姿で私の視界を彩るようになって。

ふと、感覚がびりついた。

鮮やかな金髪のポニーテール、丸っこい顔に荒れ放題の肌、細すぎない体。ボロボロの革の服を身に着け、首には半分に欠けたペンダントを巻いている。少女であるその「誰か」の綺麗な顔立ちは、曖昧な表情によって遮られていた。

その風貌はまるで廃墟の地、第2生存圏の圏外で自給自足の生活を送る人のように見えて。

だからこそ、私は確信してしまう。その「誰か」の名前と、共にいた日々の記憶を。

1年前のあの秋、孤児院の終わりを告げられた日に断ち切った、断ち切らなければならなかった関係を。今になってそれが未練だったかのように感じてしまうことを。あの試験日の終わりから今までの3ヵ月間、同じ漆黒の景色を見るたびに、ずっと。

 

「あはは、のぞみはくじけないんだな」

 

まるで私に話しかけてくるように、赤槻神奈の姿から言葉が発される。

神奈のその姿を見るたび、何度も伝え返そうとした「違うんです」の言葉はやはり、私の声にはなってくれなかった。

 

「そんなのじゃないんです。たぶん、そんなのじゃないんですよ、私は……」

 

私の声をした何かの言葉が後ろから聞こえてきて、漆黒の視界が今度は純白に染まる。

「空間の上側」に向かい始めた意識を無視して、純白にも染まらなかった神奈の灰色の輪郭に向かって私は耳を傾けようとする。

けれどそんなささやかな抵抗も結局無意味に終わって、間もなくして神奈の輪郭がぼやけて消えると、あとにはもう何の言葉は聞こえなくなってしまった。

代わりに、空間の更に上の方から蘭の言葉が聞こえてくる。あの試験日の朝と同じ、私への心配の感情を込めた呼びかけ。それを聞き取った私の混濁した感覚は、蘭に引っ張られていくみたいに淡く優しく消えていって。

――そうして、私の意識は再び現実に浮上した。

 

 

「のぞみちゃん、のぞみちゃん? ……朝、もう8時ですよ。ほら、起きてくださいってば」

「…………ぁっ、立花さん……はっ!!」

 

西暦2078年8月24日、水曜日、曇りの日。

肩を揺すられ、まだ眠気を残して起き上がったのぞみは、蘭の言葉を聞くことなくいちどまぶたを擦り、ぼやけた視界のまま部屋の隅の置時計を見る。

そして今が8時13分であることを知った瞬間、自らの眠気を吹き飛ばす勢いで蘭に寄りかかり、蘭に抱きつこうとして指で弾かれた。

「3日前は7時20分、おとといは8時40分、昨日は6時半。……まったく、まだ夏休みだからって言っても、

 そんな不規則な起き方では体調を崩してしまいますよ?」

「いやあ、ちょっと前まで頑張って宿題やってましたから、最近気が抜けてしまっていて……」

 

弾かれたのぞみが受け身になって蘭を見据えた。

蘭はそれを見据え返すことなく一度ため息をつき、それから上げ切った顔を引き締める。

そして左手に握りしめた、昔に作られた地図のように茶色く変色した用紙をのぞみの布団めがけて叩きつけた。

 

「ほら、合宿ですよ! きょうから2泊3日、RPG部の皆で行くんでしょう!」

「そ、そうでしたっ、早く準備を始めませんと!」

 

先週の部活動のときに理恵達に計画を説明してこれを3枚分渡したんですよね、と続いた蘭の言葉を聞いてハッとしたのぞみは、昨晩に主にゲームと食料を詰め込んできたバッグと、水を入れてきた水筒2個をアポートで取り寄せてから素早く腰を落として茶色い用紙を手に取った。

蘭の「地図を作る魔法」によって製作されたこの茶色い用紙の表面には、のぞみ達ふたりが住む蘭の家を中心として平地から河川、畑から森林、刀子の駄菓子屋に理恵と美崎の家、楼附高校や他の建物に至るまでの半径5キロメートル以内のあらゆる地形が記されている。

のぞみはその地図を少し眺めたあとに再び立ち上がり、蘭にも見えるよう近づいてから地図上に書かれた矢印とバツ印に指をさす。矢印の方向を何度も辿った先、「Orphanage Ruins」と記されたその地点こそが先週、のぞみ達が合宿の行先として決めた場所であった。

 

「おっけー、バッグと水筒持ってきましたよ。あとは……」

「道順の再確認、ちょっとした復唱が残ってますね。それではのぞみちゃん、どうぞ」

「8時半出発。出発後、林道から通学路に降り、最初の分岐を右折して直進。田園地帯に着いて以降も直進を続ける

 と郊外の草原が見える。そこで理恵さん達と合流して、更に直進すればすぐ立札が見えるから、そこから北東に向

 かえば目的地に到着、ですよねっ」

「はい、OKですっ。これなら迷わず進めますね……って、のぞみちゃんは元々迷いませんか」

「当然ですよ、半年前までずっとこんな感じだったんですから。それに、ちょっと疲れちゃいますけど千里眼の超能

 力だって使えますしっ。それじゃ立花さん、先に朝ごはん食べてきますねっ!」

 

水筒とバッグを持ち、そそくさと扉を開けて弾んだ足取りで1階に降りていくのぞみを見て、蘭は頬を緩ませながらため息をつく。それから同じように準備を終え、急いで廊下に出た蘭は、扉を閉めたのを確認してからのぞみを追いかけていった。

1階のリビングの中心、テーブルの上にはバターが塗られた大きな白パンが置かれている。

のぞみは蘭の両親と向かい合う形でテーブルに座っていたが、蘭が1階に降りてきたことに気づくとアイコンタクトで蘭を呼びかける。するとそれに気づいた蘭もテーブルに向かって走り、のぞみのもとに着くと、大きな白パンをほおばるのぞみのすぐ隣に座った。

 

「おう、蘭。きょうの朝飯はバター付きの白パンだぞ、合宿祝いの贅沢でな、がはは!」

 

のぞみに遅れて白パンをほおばった蘭はパンに乗せられたバターの強烈な塩味に唸り、前に食べた日がちょうど1年前、誕生日だったことを思いだす。心に押されるように隣に目を向けた蘭の視界の先に、目を瞑ってパンを食べるのぞみの横姿が映った。

それは蘭が今までに見たことのなかった姿で。何と言えばいいのか迷った末、先に「美味しいですね」と言った蘭に、のぞみは笑って「初めて食べました」と言葉を返した。

「ごちそうさまでした、いってきます!」

「ああ、無理しない程度にいってらっしゃいな!」

 

それから素早く白パンを完食し、蘭の両親に向かって外出を告げたのぞみと蘭は、手を繋いでリビングから玄関へ、玄関から外へ、外から林道の中腹へと走りだす。

普段行くべき楼附高校ではなく夏休みの合宿先として、いつか行くべき場所だった孤児院跡に向かって。蘭とふたりだけじゃなくて理恵や刀子、美崎達とも一緒に走りだす。

繋いだ手を放して、林道から通学路に降りて最初の分岐を右折し、前に前に走り続ける。

RPG部の皆と1日中部活動をしたり、1日中話したり遊んだり。そういったいつかは普通だったはずの今、何よりも特別なことを初めて果たす為に。

そして、ただ願わくば、何よりも。

千里眼の視界の先、孤児院跡のあの場所でずっと見えていた、神奈にまた会いにいく為に。

 

「ここから先はずっと前です! 飛ばしていきますよ、立花さん!」

「はいっ!」

 

のぞみと蘭がそうして走り続けて、それからどれだけの時間が経っただろうか。

曇り空と薄い山、田んぼの景色がどこまでも続く田園地帯を抜けたのぞみと蘭が、郊外や草原という名で語られる未開拓地への入口、合流地点に到着すると、正面には前方への道だけが完全に途切れた丁字型のアスファルトが広がっていた。

アスファルトの途切れ際、草原との境界線上にバッグを背負って立っていた理恵と刀子と、細長い筒状の何かを背負った美崎が、ようやくここまで来たのかと言わんばかりに、のぞみと蘭にぶつかってくる勢いで駆け寄ってきた。

 

「あ、来た! のぞみんと立花ちゃんだ! 合宿、楽しみにしてたわー!」

「ほんと!? おーい、ここにいるよーっ、のぞみさーん! 立花さーんっ!」

「……あ、ふふっ」

「お待たせしました、皆さん!」

「のぞみ、立花、ちょっと遅刻だぞー! まあ、腕時計なんぞ無いから何分かは分からんが!」

「分かってますって!」

 

3人をサイコキネシスと自らの体で受け止めたのぞみの手に、4つの手が重なる。

のぞみの手のひらは夏の暑さで生温い感触のまま、手の甲に4人の暖かい感触がほんの数秒間伝わり、手を伸ばせば届く場所にまた離れていった。

体を翻し、丁字路に背を向ける。草原との境界線上で再び立ち上がったのぞみ達は、前方の列にのぞみと蘭と美崎、後方の列に理恵と刀子という隊列を組み、それから一様に郊外の草原に向けて指先をさすと「アスファルトの向こう側」に向かって一時の別れの言葉を紡いだ。

――私達は、RPG部はここにいます。でも、今から少しだけ遠い場所にいってきます。そして私達の世界、部室から少しだけ飛びだしたあの場所で、私達の世界のことを少しだけ好きになって戻ってきます、またね、と。

 

「ほら、この辺りからは結構イノシシ出ますから。歩きで行きますよ、皆さんっ」

 

陽の当たらない曇り空の下、夏の終わりも近づくころ。

心の準備をそうして終えたのぞみ達は、ゆっくりとした、しかし力強い足取りでアスファルトと草原の境界線を1歩、前へと踏み込んだ。

「わっ、凄い……!」

「ここが、私が元々住んでいた場所ですっ。凄く綺麗で、だけど……凄く、残酷で」

そこは――鮮やかな世界だった。

地面は緑1色で、空は灰1色で、だというのに。ともすれば代わり映えのない単調な風景であるはずのその景色が、のぞみ達にとっては色彩豊かな世界に映っていた。

まるで神様が作った原初の草原のようだ、と美崎が言う。

それだけの言葉で蘭と美崎にとっては初めての、理恵と刀子にとっては何度目かに覚えただろう全能感が脳髄に反響する。そして直後、バッグから「勇者の剣」と銘打たれた鉄製のハチェットを取りだし、鞘を引き抜いて片手で構えたのぞみのひと言によってかき消された。

街の郊外たるこの草原に獣除けの一切はなく、手持ちの道具も完全な効果を示さない。ここは既に文明のない野性の世界であり、環境が人々を守るアスファルトの世界ではなかった。

のぞみはその場で蘭と理恵に側面の警戒、刀子に後方の警戒を頼み、刀子が磨製の石斧を持ったのを確認してから前方の辺り一面を見据えて号令をかける。

――前進、開始。

 

「なあ、のぞみ」

「美崎さん?」

「それでも……穏やかでいいな、ここは」

「ふふっ、それはですね、皆さんと一緒だからですよっ」

「のぞみ、汝は……」

「……こんな穏やかな場所だって、私だって、ひとりでは耐えられませんでしたから」

 

のぞみ達が草原の入口から歩き始めると、目的地への道標となる立札はすぐに見つかった。

立札は酷く風化しており、比較的新しい時期に書かれただろう「北東、楼附孤児院」の文字と、すぐ下の方に見えた「教会」の2文字がかろうじて判別できるだけの状態だったが、のぞみ達にはそれだけの情報で十分だった。

立札に書かれた矢印に従ってのぞみ達は孤児院跡が遺された方角、北東へと歩き続ける。

――最中。進路上、目視で100メートル余りの距離。草むらの方にわずかに見える、黒褐色の体毛をした「それ」に対してのぞみはハチェットを持つ腕に力を込めた。

 

「イノシシ、ですね。ちょうど進路方向に、1匹……」

「一旦、迂回するか?」

「普段ならそうするんだけど……でも、ここだとあたし達でも迷いそうな気がする」

「……ですよね。どうしますか、のぞみちゃん。あれ、去ってくれそうには見えませんけど」

「刀子さん、一緒にやれそうですか」

「ここで実際にやるってなると難しいわね。仕入れのときは結構道路、整ってたし」

「でしたら――」

「待って、のぞみさん」

「理恵さん?」

「立花さん、防音魔法を。……あたしの銃なら、今の場所からその斧より確実にやれる」

 

イノシシが前にいる。

それが分かった瞬間、蘭、理恵、刀子、美崎の4人は今までの密集した状態から即座に数メートル間隔の散開を行う。そしてのぞみを先頭に、刀子を後尾に、運動能力の低い美崎を中心に据えた菱形の陣形を組んだあと、誰も動くことなくそれぞれの武器を構えた。

蘭は自身の体の四半を覆えるほどの木製の盾を、刀子と美崎は自身の腕に近いほどの長さがある磨製の石斧を、そして理恵は合流したときから背負い続けていた筒状の何か――猟銃を。

刀子の「難しいわね」という言葉を聞いたのぞみが1歩、2歩とイノシシの前に足を進める。

3歩目を止めたのは理恵の声だった。

のぞみは千里眼の超能力でイノシシの動きを正確に見据え、蘭と理恵の動きを待ち始める。

イノシシは動かず、動く気配もない。後ろでは蘭が防音魔法を詠唱し、盾の内側に五芒星の魔法陣を貼り付けていたが、後ろのその動きを見る余裕は今ののぞみにもなかった。

 

「刀子先輩、皆、見ていて。……これが、あたしの『普通』だよ」

 

前をのぞみに、後ろを刀子に任せ、少しの時間をかけてしゃがみ込んだ体勢になった理恵は、目視で100メートル余り先のイノシシに猟銃のスコープを向ける。

のぞみの超能力や、蘭の魔法なんて凄い力を何も持っていないぶん、よく目を凝らして、黒褐色の体毛から照準を動かし、イノシシの鼻を捉えて。

風の音と、鳥の鳴き声だけが聞こえていた草原に、防音魔法によってのぞみ達以外には聞こえなくなった破裂的な銃声が響き渡った。

 

「皆さんっ!」

「連続詠唱、レッグスリップ、ボディスネア、ヘッドバインド!」

「す……っ、はあっ!!」

 

理恵の銃弾に鼻を撃ち抜かれたイノシシがかくり、とのけぞって側面から倒れていく。

それとほとんど同時にのぞみが前に飛び込んだ直後、生きているのか死んでいるのか瞬時に判別できない状態になったイノシシは蘭の魔法によって脚部を捻じ曲げられ、胴体を地面に打ち付けられ、頭部の動きを縛られて、最後に両手に持ち替えて振り上げられたのぞみのハチェットで胴体を強烈に叩かれて絶命した。

ハチェットを下に向けたのぞみに向かって最初に蘭が、次に刀子が、遅れて理恵と美崎が駆け寄る。蘭の洗浄魔法の効果で血の付いたハチェットが洗い流されると、のぞみは「生命を持った相手に使えない」アポートを使ってイノシシを遥か遠くに吹き飛ばした。

それから周囲の安全を確認したのぞみ達は、再び前方にのぞみと蘭と美崎、後方に理恵と刀子の隊列になって密集するとそれぞれの武器を構え直してまた北東に歩き始めていく。

雲と雲の途切れ際から地上をひと筋の光が射す。その淡い光が5人の行く道を照らしていた。

あかつき かな

​てい

​てい

ひるがえ

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