◇
「あぁ、なんで試験中は部活できないんですかっ。くぅ、早く普通の日に戻りたいーっ」
「無茶言わないでくださいって、のぞみちゃん。そういう期間なんですから……」
西暦2078年5月16日、試験が始まる快晴の日。
ざわめきながら走る生徒達や虚ろに歩く幽霊のような生徒達、異常なまでの高揚を誰かに自慢げに見せつけてる生徒達の体をかき分けて普段通り高校に入ったのぞみ達は、試験が始まるまでの間、部室の前で待ち合わせていた。
部室の壁に貼られた板には「休業中」の文字が書かれており、扉には青白い光を放射する六芒星の結界が重なっていた。これは蘭が詠唱した他者の接触を一時的に遮断する魔法、パーマネントバリアによるものである。
「ん、刀子先輩。試験、行けそう?」
「大丈夫、まだ赤点ギリギリの最低限くらいは取れるわよ。あー、今ほど基準の緩さに感謝したことはなかったわ、
ほんと」
「うん……よかった。刀子先輩、結構無理してそうだったから」
「あはは、昔ならともかく今じゃそんなこと絶対しないって。理恵だって頑張ったんでしょ?」
「うんっ! だってあたし3徹もして勉強してきたんだ。だから試験、実は結構自信あって……あ、見つけたっ!
おーい、のぞみー、立花さーんっ!」
「あっ、おはようございます理恵さん、刀子さんっ」
「ん、ふたりともおはようございます。……ふわぁ、やはり早起きは身に堪えますね……」
「……ふぅ、ふぅ。く、少し走っただけでこの様とは。……ぬ、あれは」
「美崎さーん、おはようございまーす! 待ってましたよー!」
「待て、今抱きついてくるなっ、駄目だっ、つ、疲れがっ、か、躱せ、ぬあっ」
のぞみと蘭がしばらく部室の外で待つと、校舎を抜けてきた理恵と刀子のふたりが名前を呼んでくる。のぞみと蘭はそれに向かって手を振り返し、ふたりのもとへ走って合流した。
4人の合流から遅れること数分、校舎から現れた美崎を見て呼びかけたのぞみは、肩で息をしながら近づいてくる彼女に向かって勢いをつけて抱きついた。
運動音痴、かつ体力不足の美崎にそれを避ける力はなく、美崎はむっと口角を上げながら己のひと回りは大きいのぞみの体に押し込まれて倒れかける。しかし美崎は抱きつかれた体勢のまま倒れも崩れもせず、のぞみの筋肉質な細腕に強く支えられれていた。
のぞみと美崎の一連の動きを見て、蘭はまた呆れた表情になり、理恵と刀子は少し前の自分達みたいだねと言葉を交わす。それから精一杯の力でのぞみを弾き飛ばした美崎は微笑む口を隠しながらのぞみに声をかけようとして、微笑み返してくるのぞみの顔を見上げた。
「ふふっ」
「……まったく。本当に調子のいいやつなのだな、汝は。だが、ああ……」
詰まって声にならなくなった言葉を言い終える前に、差しだされてくるのぞみの右手。
美崎は、口元から放した手を使ってそれを強く握りしめる。そして詰まっていたはずのその言葉をこぼすように、それも悪くない、と穏やかな声でつぶやいた。
「そういえば美崎さん、そっちは試験の見積もりって平均何点くらいにしてるんですか?」
「そうだな、80点程度だろうか。なまじ能力を使って容易に解答を記憶できるばかりに、
興味が無い科目を勉強しようという気が働かんのだ。……それと、実技試験の方はダメだな」
「実技試験ってことは、あれだよね。この前の授業でもやったやつ。校舎裏の農地で鋤を使って土を耕すとか、牧場
で牝牛の乳を絞るとか、そんな感じの……」
「ああ、それで相違ない。汝らも知る通りわれに力仕事はできぬ故な。よってそこの、同じ2年生の刀子よ。もしわ
れが試験で倒れれば、そのときはよろしく頼むぞ?」
「ええ、任されたわよ」
部室から離れた草地にいるのぞみと美崎に向かって蘭、理恵、刀子の3人が駆け寄る。
のぞみ達はそれからいくらかの時間を談笑に費やしたあと、学校じゅうに響いた試験開始5分前を告げるチャイムを聞いて全員で校舎へと走っていった。
階段の近くで刀子、美崎のふたりと別れたのぞみ達の視界に、多少の人混みで形どられた普段より騒がしい廊下が映る。自分達と同じように教室に向かう彼らの体をかいくぐって廊下を走り続けたのぞみ達3人は、教室の前に着いてようやくそこで立ち止まった。
教室の扉に手をかける蘭の姿を見て、のぞみは一旦、理恵がはぐれていないかを確認する為に辺りを見回し始める。このときののぞみの感情は全くの軽いものであった。そう、のぞみのこの行動は本来ならば、理恵の姿と、彼女にとって取るに足らない生徒達の姿を見るだけで終わるはずだったのである。
――視界の隅、廊下の陰。そこで無造作に佇む、くすんだ金色のポニーテールをした、見知った少女の横顔を見るまでは。
「――そん、な。あのひと、は」
「…………のぞみちゃん、のぞみちゃん? っ、よかった、聞こえてましたかっ」
「……理恵さんがはぐれていないか、確認していたんですよ、ここの廊下、まだ結構人がいましたからね。……ほら
っ、一緒に行きましょう、立花さん、理恵さんっ」
「う、うんっ」
赤槻神奈。
脳裏に瞬時に浮かんだその少女の名前を、のぞみは自らの頭に強く、強く押し留める。
それだけでのぞみの意識がばっ、と遠のいて、視界が暗くなった。焦点の合わない両目の先にチカチカとした光の粒が焼き付いたように混ざるなか、次に意識が戻ったとき、断片的に聞こえた蘭の呼びかけに対して振り返って酷く曖昧な顔色で答えたのぞみは、少し頭を下げた体勢になって、何事もなかったかのように教室に入っていった。
理恵が心配の感情を隠さずのぞみを追って教室に向かう。それを見た蘭は少しの間、廊下に留まってのぞみが見たところの先を探そうかと考えていたが、教師の「あと2分、まだ全員揃ってないぞ」という言葉を聞いて足早にふたりを追いかけていった。
「よし、全員揃ったな。はーい、んじゃ試験の準備するぞー。えー、初日は確か国語、歴史、現代社会の3科目だっ
たっけ。ま、いいや。出来上がったらこっちで採点しとくから、全員それなりに上手くやっといてくれよな。あ、
カンニングはなしだぞー」
8時58分、試験開始2分前の教室にて。
滑り込みで教室に入り、席に座ったのぞみ達は今、机に置かれた試験用紙と対峙していた。
理恵は片手で頭を抱え、蘭は机に手を置いて自信に満ちた表情になっている。
のぞみはと言えば、既に顔色を元に戻しており、この時点で試験用紙の大まかな内容を把握していた。きょうの教科は国語、歴史、現代社会。3科目の内容のどれもが居眠りしていては解答できないほどの代物だったが、のぞみは安堵した。いかに高校生のものとはいえ、孤児院にいたとき呆れるほど学んだものとそうは変わらない内容だったのだから。
ややあって試験用紙をひと通り見終えたのぞみ達は、教師の「そろそろ始めるぞ」という声を聞いて机の木箱から鉛筆を取り、教壇に目を向ける。教壇に立つのは中間試験の1日目を担当させられた田中教師だった。
「お、時間だ。えー、それでは生徒諸君、現時刻をもって中間試験を開始するぞっと」
静まり返った教室のなか、田中教師が力のない声で中間試験の始まりを宣言する。
彼女の宣言が教室の奥まで伝わると、元々構えていたのぞみ達だけでなく、意欲の薄かった多くの生徒までが何だかんだと鉛筆を取り始める。
それから間もなくして再び学校じゅうに、今度は試験開始の瞬間を告げるチャイムが鳴った。
刹那の如く短く、そして永遠の如く長い50分の始まりである――。
結局、4日に渡って行われたこの中間試験で、のぞみ達は目の前の試験用紙を相手に戦い続けることになる。そうして試験が終わった後日、学校から折り畳まれた状態の用紙が返却されると、のぞみと蘭は期待とともに、刀子や理恵、美崎は不安とともにそれを開けた。
最初に開けた刀子の用紙には筆記39点、実技52点と書かれており、美崎は筆記82点、実技31点であった。理恵のそれは筆記68点、実技62点であり、蘭の用紙には筆記79点、実技78点という高い数字が記されていた。
その点数を見て大いに喜ぶ理恵、安心して息をついた刀子、納得いかない表情の美崎、どこか自慢げながらまだまだですねと言い張る蘭。千差万別の反応をする4人に向かって、最後に用紙を開けたのぞみがその用紙を見せにいこうとする。
――筆記100点、実技100点。孤児院で中等教育を終えてきたというのぞみの用紙には、蘭以外の全員にとって常識外れであるその点数が書かれていた。
◇
「――神奈、どうして。どうして今、なんですか……」
家中が寝静まった夜、のぞみは布団のなかでひとり言葉にならない声を吐きだす。
その言葉には普段、彼女が感じることのない後悔と悲愴と、そして「会いたい」という強い感情が混ざっていた。
試験が終わったこの日以降、のぞみは学校生活の傍らで毎日、神奈の姿を探し続けることになる。
――それでも。夏休みが始まるそのときに至ってさえ。目も合わせられなかったあの日の朝を最後に、のぞみが神奈と再会することはなかった。
(第3話「門戸は試験と共に叩かれた」了)