◇
「どうして、来たのよ」
抑揚のない声を聞いた理恵の足が、扉の前でふらついて止まる。
食堂に残っていた刀子の周りの生徒が次々と外に出ていく中、理恵は刀子を引き止め、頭を振りながら刀子の名前を呼び続ける。理恵の呼びかけに刀子は答えない。ふたりは互いの顔を見ることなく、言葉を交わすこともなく、数分間が流れても床の上で立ち尽くしていた。
「去年の冬、忘れた訳じゃないわよね」
「うん、忘れてない。先輩は全部終わらせるって言ったけど、あたしには未練しかなかったから。
……何も終わってないあたしじゃ、何ひとつ忘れられる訳ないよ」
「……ちが、っ。ううん、私は……。……やっぱり、起こっちゃった時点で何もかも遅かったのよ。
私にもう少しだけでも余裕が残ってたら、理恵にこんなこと、言わなかったはずなのにね」
それから、今にも消え入りそうな微かな声が理恵の耳に届く。すべて聞いて、理恵は引き止める力を強めて刀子の背中に全身ですがりついた。けれどその体も刀子の腕に振り払われて。理恵の薄緑色の瞳からふた筋、涙が零れ落ちる。理恵の体のふらつきが強くなった。
支えを求めて近くの壁に全身を預けることになった理恵は、前歯を噛みしめながらかろうじて体勢を留めて刀子を探そうとするが、滲んだ視界ではどこに刀子の姿があるかも判別できない。理恵が刀子の位置をようやく把握できたのは、食堂の扉がごとんと音を立てて開いた時だった。
「遅く、ないよ……っ。だからあたし、先輩にまた会いたくて………」
「……ごめんね。ガイアブレイダー、楽しかった時の最後の思い出。私も、忘れてないから……っ」
視界は見えなくとも、刀子が食堂の外に向かったことは分かっている。理恵は刀子を追いかける為に壁伝いに動こうとするが、ふらつく体が壁にもたれた今の状態以上の動きを許してくれない。
「ごめんね」のひと言が動くこともできないまま突き刺さり、理恵は膝から崩れた。何個もの涙の粒が床に落ちる。瞬間、のぞみと蘭の大声が食堂中に響いて、滲んだ視界の向こう側にいるはずの刀子の足が一瞬だけ止まった気がした。
「佐藤さん、佐藤さんっ!」
「あ……っ。ふたりとも、追いかけてきてくれたんだ。……あはは、恰好悪いなぁ、あたし。
顔もこんなだし、足もふらふらだし。……ごめんね、ふたりとも。食器、持たずに走っちゃって」
「まさか。恰好悪くなんてないですよっ。……佐藤さん、何があったのか教えてくれますか」
「のぞみちゃん、それはっ」
「いいんです、私は慣れてますから」
床の上でぺたんと座る体勢になっていた理恵は、肩を落として頭を下げ、床を見つめながらぼんやりとした意識の中でつぶやくように言葉を返す。理恵の涙が枯れて視界が戻るころには既に刀子は食堂から姿を消していた。
のぞみの声を聞いて、前を向いた理恵の正面にのぞみの微笑んだ顔が映る。
少しして顔を上げ始めた理恵に向かってのぞみと蘭が体を寄せると、理恵のまだ曖昧な視線がふたりの姿を捉えた。泣くことは格好悪いことではないのかもしれないと、鮮明に変わる視界の中ではっと気づきながら。
「刀子先輩と色々あったんだ。……本当、色々あってさ。それ以上は聞いてほしくない、けど」
「……そうですか。でしたら私、何も聞かないことにします」
「ありがと、白宮さん。普段のあたし、泣き虫で弱虫で、ほんと駄目だからさ。
そう言ってもらえて助かる。……でも。今回だけはやっぱり、あたしから言うことにする、かな」
「いいんですか?」
「うん。……全部言って後悔するのは嫌だけど、何も言わなくて後悔するのは、もっと嫌だから」
中学のころ、刀子の身にそれが起こってしまった時、理恵は刀子に何も言うことができなかった。
先輩はその時卒業間近だった、けれど言えた期間が少なかったのが理由だとは思わなくて、だから理恵は内気で弱気な自分がずっと好きではなかった。
中学のころ、自嘲する自分に向かって身を寄せた刀子が「悪いなんて私が言わせない」と言ったことを理恵は覚えている。だから刀子の背中を見た時、理恵はまだ笑顔だったころの刀子との記憶を想起して、耐えられなくなって駆けて。その先で笑わなくなったままの刀子の姿と、刀子がガイアブレイダーを忘れていなかったことを知って。今になって、理恵の意識の中に形容のできない何かが芽生え始めていた。――もし自分の手を刀子先輩に届かせられるなら、と。
目前で振られた手に理恵の視線が引き寄せられる。笑みを消したのぞみと蘭の顔が視界に映った。
見据えて、澄んだ声色で答える。
「……1年前の冬。刀子先輩の父親が落盤事故で死んだ。
あたしが泣いてたのは、先輩がそのせいで笑わなくなったこと、今も変わってなかったから」
理恵の言葉が蘭の顔を引きつらせた。
食堂の古時計を一瞬眺めて授業の時間が近くないことを確認し、理恵は話を続ける。
「先輩の家、朝霧屋って言って、この辺りで唯一嗜好品を売ってる駄菓子屋でね」
「うん」
「繁盛してるんだけど、都心と遠すぎるから普通の材料調達もできなくて。だから定期的に穀物を背負って
都心まで遠征して、材料と交換して帰ってくる『仕入れ』って仕事があるんだって先輩は教えてくれた。
それ以上は教えてくれなかったけど、今のあたしなら分かる。
『仕入れ』は元々先輩の父親が担当してたんだ。だから事故が起こった時、先輩はその辺の仕事を全部
引き継がされたんだと思う。――だって先輩、自分がひとり娘だって言ってたから」
「……のぞみちゃん、ここと都心の距離って」
「50キロメートルです。道はイノシシや鹿で溢れてますから、普通は通れないところですが」
「刀子さんもお父さんも、都心に行く手段を持ってたんですよね? でなければ、あまりにも……」
淡々とした口調で話す理恵を見て、蘭は自らの左手を強く握りしめた。対してのぞみは顔色ひとつ変えることなく理恵の顔を見据え返し、次の言葉を待つ。
「うん。授業の時、β症候群の第2症状って白宮さん言ってたけど、刀子先輩の父親も同じなんだ。
自己再生能力って傷とか疲労がすぐ治る能力を持っててね。自分にも同じ能力があるんだーって、先輩は
あたしに誇らしそうに伝えてた。……『仕入れ』は間違いなくこの能力を前提にしてると思う。
なんてったって、あたしは学校に行くだけでも精一杯なんだよ?
あたしには何も能力ないし、正直刀子先輩のことずっと羨ましいなーって思ってた」
言葉を受けてのぞみが頷き、蘭は理恵に手を伸ばそうとする。
ふたりの姿を視界に収めると、得体の知れない感情とともに理恵の心臓の鼓動が強くなった。
胸を左手で抑え込んで理恵は話を続けるが、次第に声が途切れていく。――今だけはためらうな。心で叱咤して立ち上がった理恵は再び壁に背中を寄せ、肩にかけていた傷んだバッグを右手で開けて中から白色の箱を取り出し、胸から動かした左手で箱を抱える。
「だけど、あたしがいちばん見たいのは、やっぱり刀子先輩の笑った顔なんだ」
のぞみと蘭の目に、箱の下部に描かれた地球の絵とその上に立つ剣を携えた戦士、箱の上部に書かれた「ガイアブレイダー」の青い文字が映った。
蘭のまぶたが開き、のぞみの眉が僅かに上がった。理恵は箱を抱いたまま唾を飲み込み、1度だけ深呼吸をしてから、決意の表情とともに大きく口を開く。
「ちょっと、今から無茶なこと言うね。駄目だったら全部、聞き流してくれて構わないから」
「駄目でも聞き流しませんよ、私達は」
「……うん。……ふぅーっ。……ん、よしっ。ねえ、白宮さん、立花さん――
あたし、RPG部に入る。入って、あたしの手で刀子先輩をRPG部に連れ出してやるんだっ」
「……本当、無茶言ってるじゃないですか。私は別にいいですけど。のぞみちゃんは……」
「おーけーですっ!」
「……ふふっ。変わりましたね、のぞみちゃんは」
食堂を一瞬だけ沈黙が支配し、少し経ってのぞみと蘭の声が理恵の耳に響いた。
理恵の心臓の鼓動が一気に収まっていく。胸を抑えていた左手を箱へと動かした理恵は、両手で「ガイアブレイダー」の箱をバッグに戻してから安心したように息を切らし、再び床に崩れる。
瞬間、食堂の外から13時35分を告げるチャイムが鳴った。食堂の扉を開けていた蘭が音を聞いて腕を振り上げ、「準備完了です」と声高に宣言する一方、のぞみは蘭を少し見てから理恵のもとへ歩きだす。
ぼんやりと食堂の窓を眺めていた理恵がハッとして飛び上がる。理恵のすぐ前には微笑みを再び見せるのぞみの姿があった。
「あの。ありがと、白宮さん……」
「お礼、聞き届けましたっ。授業まで時間がありませんから、超能力、使いますねっ!」
「オーケー、のぞみちゃん!」
「ぬぬぬ……っ、よし、レビテーション発動! ふたりとも、全速力で突っ込みますよ!」
「わ、わわっ、力、強っ! あ、あたしがこんなだからって何も、だ、抱きかかえなくてもーっ!」
サイコキネシスを使って理恵を持ち上げ、全身で理恵を抱きかかえたのぞみは、次に視界の前方から自らに向かって伸ばされた蘭の左手を握りしめる。
のぞみは即座に空中浮揚能力のレビテーションを唱え、蘭と理恵とともに地上から10センチほどの高さまで浮遊する。それから一気に食堂を飛び出したのぞみは第2校舎と校庭を抜け、既にまばらになった生徒達を避けながら一直線に第1校舎の教室前に到着する。教室の扉の近くでのぞみが理恵を降ろすと、理恵は身体をぐらつかせながら両手で扉の取っ手を掴んだ。
「到着しましたよ、佐藤さん」
「ふひゅ、ふっ、ふう……っ。うう、体ぐらつくーっ。……あの、これ、立花さんは大丈夫なの?」
「……いえ、これは私でも少々堪えますね」
「……そうなんだ。……うん。ねえ、白宮さん。あたし、放課後になったらすぐにでも先輩に会いに
行きたいんだけど、白宮さんはそれで大丈夫かな?」
「構いませんよ。でしたら、放課後になったら3人で階段前に集合ということにしましょうか」
「うん、分かった。立花さんも色々ありがとね」
「いえいえ、こちらこそですっ」
体のぐらつきが収まるより早く教室の扉を開けた理恵に続き、のぞみと蘭のふたりも自らの席に向かって歩き始める。何秒か掛けて席に座った理恵が周りを眺めると、席全体に対して数割しか座らない平均的な生徒達の姿と、隣の席に座るのぞみの姿が映った。
理恵がのぞみに目を寄せる。のぞみが首を傾け、視線を返してきた。それでも理恵の心は晴れやかだった。今度はぞみの顔を見据えることも、自分から話しかけにいくこともできるのだから。
「えー、5時間目、数学を始めるぞ。起立、礼、着席。それと生徒達はもう少し席につくように」
数分後、扉から現れた教師が教壇に立ち、授業開始の宣言をした。
流れゆく授業の中、前の時間と比べて少し回答を遅らせたのぞみに対して、蘭は回答を早める。そして理恵は回答の度にその内容をメモ書きしながら少しだけ成績を伸ばし、農業に関わる部分以外に意欲を見せない生徒達の中で徐々に3番手の位置に近づいていくのだった。
◇
「佐藤さん、ひとりで行くんですか?」
「うん。……そうしないと刀子先輩、取り返しのつかないことになる気がするんだ」
「なら、行く前に私達に何かやってほしいことはありますか?」
「ふたりにはここで待っていてほしい。たぶん他には何もない、かな。じゃ、行ってく……っ。
……いや。……あ、あの、やっぱり、ひとつだけ、白宮さんにやってほしいことがあって……」
「私ですか?」
「……う、うん。……手、握ってほしいんだけど……本当にいいのかな、って」
放課後、15時台。第1校舎の階段前で約束通りのぞみと蘭と合流した理恵は、ふたりと言葉を交わしたあと、階段を登ろうとして1段目で立ち止まっていた。
振り返った理恵がふたりに話し始めると、会話が続く中でのぞみの体が理恵に近づいてきて、理恵の右手にのぞみの右手が重なる。
「……あ」
「ふふっ」
意識を向けるより早く、理恵の右手ががっしりと握られた。
冷たくも暖かくもない力強い感触を受け、驚いた理恵は頭を後ろに倒す。しかし理恵の体がふらつくことはなく、ゆっくりと頭を戻した理恵は目前まで来ていたのぞみの姿を再び見据えて、頭上まで伸ばした左手で親指を立てて笑い返した。
「刀子先輩とうまくやれたら、あたし、ここで思いっきり泣いてやる」
「はいっ、望むところですっ」
「よし。じゃ、今度こそ先輩のところに行ってくる」
「分かりました。しーゆーです、佐藤さん。……おーい、立花さん、じゃんけんしませんかーっ」
「あっ、いいですねそれ。早速始めましょう。えーと、最初はぐー、じゃんけん……」
「うん。……またね、弱いあたし」
握られた手を離し、のぞみと蘭に背を向けて理恵は階段を駆けあがっていく。
黒の長髪を揺らして走る理恵を見て、のぞみと蘭はじゃんけんの体勢に持ち込みながら、理恵の姿が見えなくなるまで手を振り続けていた。