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テーブルトップ・ロールプレイングゲーム。
一般にテーブルトーク・ロールプレイングゲーム、略してTRPGと呼称されるこのRPGの一形態の歴史は古く、現在から遠い過去、西暦1974年発売の商品を原初とする。
この原初の起源は複数あり、ひとつを「チェインメイル」という名の駒とミニチュアを利用した卓上戦争ゲーム。ふたつをファンタジー文学そのもの。最後を「チェインメイル」に付け加えられたファンタジー基軸の追加データ集、ファンタジー・サプリメントと表題された書物の内容に求めることができる――。
「――と、われが昔読んだ本に書かれていたのだが」
今となってはもはや真実か定かでない歴史が、美崎の口から雄弁に語られた。
蘭はそれを聞いてふむ、と軽く頷く。対して刀子は弾んだ口調で興味津々に「これはこれは急な授業外の歴史語りじゃないっ。ねえ理恵、これって本当なのー?」と話を振った。
刀子の言葉を聞いた理恵は片手で頭をさすって「あたしも正直、本当かは分からないなぁ。のぞみさんはどう?」と更に話を流す。すると流されたのぞみも「いえ、私も知りませんね。孤児院にはその手の本は殆どありませんでしたから」と言って、それからのぞみでも知らないことがあったんだ、という蘭の少々の驚きとともに一旦、TRPGの起源の話は終わっていった。
大雨の日の翌日、西暦2078年5月10日。放課後になって間もなくのことである。
「美崎さんの方、元都心住まいですよね」
「ああ、そうだ。われは元々都心出身でな。唯姉が都心の図書館でその本を借りてきたとき、ふと、われもその
本を全部読み切ってみせたのだ。当然、今でも全項全文を暗唱できるぞ」
「おおっ、そりゃ凄いわねぇ。天才?」
「似たようなものだ。これはわれの情報処理能力の賜物でな。われが必要と思った情報を抜き取り、それだけを
脳で完璧に覚えられるのだ。まあ、良いことばかりでもなかったがな」
部室の中心に鎮座する円卓、それを囲む形で五角形に並べられた椅子にはのぞみと蘭、刀子と理恵、美崎の5人が座っている。円卓の上には既に4人分の駒と今回遊ぶTRPGの舞台の地図、鉛筆に6面体のサイコロふたつ、それから情報処理用のノートパソコンが設置されていた。
バッグからルールブックとサプリメントを取りだした美崎がテーブルに両方の肘をつけ、待ちきれないぞと全身をぐわぐわと揺らして笑う。何しろ今回のゲームマスター役、つまりTRPGの監督側、進行役を志願して見事叶えたのが彼女、藤原美崎だったのだから。
「よし、これでわれの準備は完了した。皆の衆、早速セッションの準備に取り掛かろうぞ」
「セッションって、音楽のあれのこと?」
「いえ、シナリオ1回分のことをTRPGではこう呼ぶらしいですよ、理恵さん。夜読んだルールブック、ん
と……今そこに置かれてる本と同じやつに書かれてました」
「へぇーっ、のぞみんも同じ本持ってるのねぇ。結構羨ましいかも。……あれ。でもこれってどうやって始めれ
ばいいのかしら。カセットみたいにテレビで動かせたりはしないのよね?」
「ですね。テーブルトーク、つまるところは卓上ゲームですから。それで、ええと……セッションを始める場合
は、最初はシナリオ用のキャラクター作成が必要になるみたいです」
「そのキャラクター作成、っていうのは……」
「サイコロを振って経歴や能力値を決めるやつです。あっ、でも詳細に言うとですね……」
「あっ、美崎ちゃん、そこのサイコロ持ってきてー!」
「おお、われに使い走りをさせるとはいい度胸だ。今渡してやるからうまく享受するのだな」
美崎はそう言って刀子の方へサイコロを的確に投げ込み、更にバッグからキャラクター作成用のシートを4枚取りだして円卓の上に重ねていく。
他の3人同様にシートを手に取った刀子がそれを見回すと、紙の表面にキャラクターの名前欄と種族欄、経歴欄、技能値欄、能力値欄、装備欄、所持金欄、所持アイテム欄の8つの記入欄があるのが分かる。
このうち能力値欄には「基礎能力値」「ダイス補正値」「成長値」「実能力値」「能力値ボーナス」の5つの項目があり、基礎能力値の項目には「選んだ種族の値を記入する」、ダイス補正値の項目には「基本的にサイコロ2個の合計値を記入する」、実能力値の項目には「基礎能力値とダイス補正値を足した数を記入する」とそれぞれ赤い太文字で注釈されていた。
この文字は美崎が後で付け足したものだろう、とシートを見渡していた刀子は思う。同時にこれなら今までのゲーム機のRPGとそれほど変わらない感覚で遊べそうだと確信して。
「美崎さん、ルールブック1丁!」
「おうけい、のぞみ。へい、新鮮な50年前のルールブック1丁お待ちーっ」
「のぞみーん、その本こっち持ってきて! キャラクター作成、私が一番最初にやりたいの!」
「分かりました! 受け取ってください刀子さん!」
「ほいっ!」
鉛筆を手に取った刀子がのぞみを呼びかける。すると折よく美崎からルールブックを受け取っていたのぞみがその声を聞いて体を伸ばし、刀子にそれを手渡した。
刀子は渡されたルールブックの目次を見て即座に「キャラクター作成」のページまで紙をめくり、数分掛けてキャラクター作成の方法を調べていく。何でもキャラクター作成の際に種族を選ぶことができて、選べる種族には人間やドワーフ、エルフなど全部で6種族分があるのだとか。
ひと通りページを見た刀子は少し迷ったのち、6つの基礎能力値のうち「生命力」の値が特に高いドワーフを選んでキャラシートの種族欄に記入する。それが終わると刀子は次に、理恵から借りたふたつのサイコロを振って「ダイス補正値」の項目を次々と埋めていった。
「みんな、作成終わったわよー!」
「あの、刀子先輩っ、次、あたしの方お願い! あたしも先輩みたいにやってみたくてっ」
「オーケー理恵、はい本1冊パスっ! あとのぞみん、私のやつ美崎ちゃんに渡しといて!」
「はいっ!」
「……なるほど、ドワーフのトーコ・アサギリさんですか。分かりやすくていい名前ですね」
「い……いい名前って、あ、わ、わーっ、わーーっ!」
――それから、しばらくの時間が経って。
全員分のキャラクターの完成報告を聞いた美崎は、最後に残った蘭のキャラクターのシートを手に取ったあと、椅子をガタガタと揺らしながらにやけ顔で手を振り続けていた。
美崎の動きに対して蘭、刀子、理恵の3人がそれぞれの利き手を振り返す。それを横目にのぞみが壁際の木時計に目を向けると、時計の針は16時26分を示していた。のぞみは振り返って美崎に微笑む。美崎は地図の上に並べた4つの駒を見つめ終えて、パソコンを起動してからゆっくりとのぞみの方を向き、のぞみに微笑み返した。
「おお、われは今歓喜に打ち震えておる! さあ皆の衆、今こそファンタジーTRPG、
ブレイド・ザ・ワールド2.8の第1回セッション、レッツ・ゲームスタートといこうぞ!」
「よっしゃー! ……あっ、ほら、理恵も一緒に!」
「あ、え、えと刀子先輩っ……ん、よし。うん、いける。よ、よっしゃーっ」
「あれ、これ私もやる流れですか!? し、仕方ないですねっ。それでは、っ……よっしゃー!」
「ふふっ、よっしゃーっ、と。……ああ、美崎さん、ちょっといいですか?」
「何だ?」
「きのうの私の活動開始宣言、きょうは美崎さんの方でやってみませんか」
「譲ってくれるのか?」
「はいっ!」
「ふふ、そうか。……深く、感謝する。では……あとはわれに任せろ、のぞみ!」
内臓キーボードをカタカタと押してパソコンのメモ帳を開いた美崎が、準備はできたとばかりに椅子から立ち上がって大きく空気を吸い込み、両手を掲げて息を吐く。
美崎のその姿を見たのぞみは言葉を彼女に譲り、頷いた。そうして始まった美崎の活動開始宣言は、昨日ののぞみの言葉を凌駕するほどの声の大きさと喜びの感情をもって行われていった。
運動が苦手で人に合わせられない。唯一の趣味は誰に話しても誰にも届かない。孤独な思いを抱え、求め続けてようやく見つけられたRPG部という居場所で美崎は猛る。それはまさに絶叫足りうる全霊の叫びであった。
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自分で作ったキャラクターを作中の登場人物として操り、作中で監督役たるゲームマスターによって与えられた役割を他のプレイヤーと、そしてゲームマスターと連携することで果たす。TRPGとはつまるところそういった構造のゲームである、と美崎は認識している。
今回、美崎がそれを踏まえてのぞみ達のキャラクターに与えた役割は「作物を荒らす洞窟のゴブリンを村長の依頼を受けて討伐する」というもの。
自らの情報処理能力を活用してルールブックの内容をすべて把握していた美崎から見れば、それはTRPGの役割としてはごく単純な、RPG部を名乗る部活に入るほどの人間ならば知りさえすれば誰でもできるだろうありふれた役割のはずだった。そう、そのはずだったのである。
「『ゴブリンによる作物の被害は深刻でな。このままでは冬を越せなくなると判断し、最初は村の狩人とわしら
武器を持てる者のみで対処を試みたのじゃが、結局は撃退するまでが限界じゃった。そこでわしらは村の貯蓄
を切り崩し、そなた達冒険者に討伐を依頼したのじゃ』」
「ねえ美崎ちゃん、ゴブリンって何?」
「だからセッション中はマスター、GMと呼べと申しただろう! それと、ゴブリンの詳細を把握したいなら6
面サイコロをふたつ振ってくれ。知識判定というやつだ。トーコの知力の基準値は今2だから、合計で3以上
が出れば詳細を知ってもよいぞ」
「それなら……ほいっ! おっけ、6が出たから教えてくれるわね?」
「ああ。では汝のキャラクターが知っていた、という体で教えるとする。まずゴブリンとはこのゲームで最弱の
敵の一種だ。食糧の確保目的に農家の作物を荒らす、徒党を組んで人間やドワーフ、エルフなどを襲うといっ
た習性から汝らとは常に敵対関係にある種族と言えよう」
「なるほど、つまり少し賢くなって弱くなったイノシシがゴブリンということですね」
「汝の比較対象は何でもイノシシが基準なのか、のぞみ!?」
「えー、軌道修正をかけます。私のキャラクターが『今回の討伐対象であるゴブリンの居場所と依頼の達成報酬
を私達に教えていただけますか』と村長に言います。OKですか、マスター」
「あ、ああ、OKだ。それなら村長は『ゴブリンは村外れの崖の中、洞窟に住んでおる。奴らは夜だけ外で活動
し、昼の目撃情報はない。報酬は1人300ガネーじゃ』と答えるだろう」
美崎に想定外があったとすれば、のぞみ達に与えた「ゴブリンを討伐する」という役割が実際にどれほどの難易度なのか、より正確な形でのぞみ達に伝えることの難しさである。
自分以外の誰だって自分と同じようには情報を捉えられないのだ、それはより普遍的な説明の難しさでもあり、情報への理解能力が高すぎるが故の美崎特有の認識のズレでもあった。
だから、のぞみがゴブリンを「少し賢くなって弱くなったイノシシ」に例え、蘭がゴブリンの居場所を聞いてきたとき、美崎は動揺しながらも同時に救われてもいたのだ。
蘭の言葉は言うに及ばずであるし、のぞみの言葉も言い方からして明らかに現実のイノシシと架空のゴブリンの比較だったのだが、その例えを聞いた蘭、理恵、刀子の3人ともがのぞみに頷いたのが好都合だった。特に刀子は無言で首をぶんぶんと縦に振っているし。ああ、そういえばルールブックにもジャイアントワイルドボアなんて名前の敵が記されていて、たしかゴブリンより高い能力値が設定されていたっけ――。
「美崎ちゃん、みさきちゃーん。……あっ、マスターねっ、マスター。そっちの村長さんに追加で質問があるん
だけど……」
「――はっ。す、すまん、つい癖が出てしまった。それで刀子、質問とは何だ?」
「崖の方向を教えてほしいのと、村から歩き通しで崖までどれくらい時間が掛かるかの2つね」
「おう、では村長は、んと……『村から北、あちら側じゃな。あちらに向かって1時間ほど
歩けば崖に着く。そこで大きめの穴が見つかればそれがゴブリンの洞窟じゃ』と返してくるぞ」
美崎はそこまで考えたあとで刀子に呼びかけられ、話が進んでいないことに気づいて思考を打ち切った。考えすぎると周りが見えなくなるのは美崎の昔からの癖であるが、家族以外からこのように名前を呼ばれるのはいつぶりだっただろう。
刀子の質問に対して、美崎は手元に寄せた地図に指をさし、村長の台詞を使ってぎこちなく情報を返す。のぞみ達により適切な姿勢で身構えてもらう為に、洞窟に行くならわしらからたいまつや罠探知の棒を1人1個分は買った方が良いじゃろう、という助言も付け加えて。
「……よし、必要な準備は概ね終わったな。それではゲーム内の時間を1時間経過させ、夕方近くに汝らが洞窟
にたどり着いたという処理にする。皆の衆もそれでよいか?」
「おーけーですっ!」
「はいっ!」
「私も!」
「あ、あたしも同じくっ」
「よいぞよいぞ! ふはは、さあ汝らよ、今こそダンジョン攻略の時間だ!われの作りしダンジョンを打ち破
り、汝らが受けた依頼を見事達成してみせる番ぞ!」
結局、刀子だけ所持金が足りなかった為にのぞみ達のキャラクターから借りた金でたいまつと罠探知の棒を買うことになりはしたが――他に何の問題も起こることはなく。
キャラクターの作成段階で決めた職業それぞれの役割、洞窟内での対ゴブリン戦術、罠の判別方法と対策手段などをひと通り話さしあったのち、美崎の呼びかけによって概ね十全な準備ができた状態で無事、のぞみ達とそのキャラクターは目的地の洞窟へ向かっていくのだった。
「ゴブリンに『アイアンソード』で攻撃します。サイコロをふたつ振りまして、命中判定は……成功、っと。
それなら次にダメージ判定を行って……お、12点ですね」
「ゴブリンの防護点は1点、よって11ダメージ通す。……あっ、また死んでしまったぞ!」
――ただ、軽視や油断は禁物とはいえ、所詮はこのゲームにおいて最弱のゴブリンである。
初心者でも倒せるように美崎に能力値を調整された上、初期状態でも「銃を持った駆けだしの猟師」と同等の能力を持つキャラクター4人に連携されてはどう戦っても敵うはずがなく、最初に洞窟の入り口近くで見回りをしていた1匹が奇襲で倒され、次に洞窟の行き止まりで罠を張っていた2匹もその罠を逆用されて撃破されていく。
最後に最深部で2体を率いるゴブリンリーダーが多少の善戦の果てに倒れると、残党も含めてそのままゴブリンは全滅し、セッションが始まって1時間と少しで「ゴブリンを討伐する」というのぞみ達の役割は果たされたのだった。
のぞみ達がゴブリンリーダーを倒すのを見ていた美崎はセッション終了後、すべてがうまくいったと言わんばかりに椅子から飛びだして円卓越しにのぞみ、蘭、刀子、理恵の4人と手のひらを叩きあう。
何もかもが満たされたような満面の笑みのなかで、美崎の茶色の短髪、その前髪に隠れた左目から不意にひと筋の涙が頬を伝った。それは笑顔とともにこぼれ落ちた少女の喜びの涙であった。