◇
土造りの道を、ひとりの少女が歩いていた。
道の周りは閑散としており、視界に田んぼはひとつもなく、近くに誰の人影も見えなかったが、少女の正面には立札があった。「北、朝霧屋」と書かれたその立札を見て少女が足を早めると、それから僅かな時間が経って、少女の前に古びた木製の建物が現れる。
それは高さ2メートル50センチ、横幅10メートルほどの1階建ての建物であり、玄関の方向、扉の上部に貼られた白色の板には墨で大きく「朝霧屋」と書かれていた。
少女が扉を3回叩くと、玄関の扉が開いて、朝霧屋の中から白髪の老婆が現れる。彼女は少女の祖母で、今の唯一の家族であった。
「ただいま、おばあちゃん」
「ああ、おかえり、刀子や。夕飯はできとるから、早めに上がってきなされ」
祖母を追いかけて朝霧屋に入った少女――朝霧刀子は、玄関で靴を脱いでから、悠々とした状態で辺りを見渡す。周囲には壁や床以外にいくつもの木製の棚があり、それらの棚にびっしりと敷き詰められたカゴには多様な駄菓子が袋詰めの状態で入っている。
残量が少なくなった駄菓子を探す為、刀子は周囲のカゴに目を凝らす。カゴの外側には「朝霧屋諸製ミニチョコ、穀物199グラム」「デリシャススティック・サラミ味、穀物299グラム」など駄菓子の名前と価格が書かれた値札が貼られており、値札の隅には注釈として赤い文字で「加工後の穀物、野菜、イモ類の交換非対応」という文章が書かれていた。
「うん。切れた商品、今日はひとつもないわね」
「刀子だけに菓子作りをさせる訳にはいかんと思った故、な。今日の昼ごろから夕方にかけて、
わたしが軽く菓子を作り続けていたという訳じゃ」
棚をくるくると眺めて、カゴの中に十分な数の駄菓子が残っていることを確認した刀子は、奥の扉を開けて生活部屋に向かっていく。
生活部屋の四隅には冷蔵庫と寝室につながる扉、洗面台と作業台がある。作業台の上にはオーブントースターを始めとして都心の商人から仕入れたきな粉袋や小麦袋、駄菓子の材料に重量測定器、数々の食器、複数の冷凍ボックスと真空パックが整然と並べられており、部屋の中心の四角いテーブルには2人分の箸と輪切りのトウモロコシが入った容器、白米が入った茶碗が置かれていた。
「いただきまーす」
テーブルの下に座り、俯きながら手を合わせて、刀子は祖母とともに箸に手をかけて夕飯を食べ始める。それから20分余りが過ぎて、夕飯を食べ終えたふたりは再び手を合わせて「ごちそうさまでした」と言った。
祖母が茶碗を持ちながら立ち上がる。それを見た刀子も箸を持って立とうとするが、自分がどこか上の空であることに気づいて何も持たずに立ち上がることにした。
「清々しい顔になったな、刀子や」
「うん」
「昔、おぬしが別れたと言った友達がいたじゃろう。その友達と会えて、良いことがあったのか?」
「やっぱり、おばあちゃんには分かっちゃうか。ほんと、隠しごとが下手ね、私って。
……うん、会ってきたよ。それで、明日にまた会いに行くって大切な約束、あの人としてきた」
「……そうか。ああ、そうか。ああ、本当に昨日とは見違える顔になったな……」
「おばあちゃん、私……」
「なに。もし、どうしても悩みが付きまとって仕方ないならば、その時はわたしに言ってくれ。
今年で82歳とはいえまだまだ現役じゃ。刀子の為なら、出来る限りのことはしてやろうとも」
「うん。ありがとうね、おばあちゃん」
厳格な、しかしどこか柔らかな祖母の言葉が部屋に響いた。
体をひるがえして洗面台に向かう祖母を横目に、先回りして洗面台で手を洗った刀子は、作業台に行って駄菓子を作り始めていく。
それから長い時間をかけて駄菓子の包装を終えた刀子は、祖母に「おやすみ」と告げてから寝室に繋がる扉へ歩きだし、ゆっくりと扉を開けて寝室に入っていった。
刀子が見た寝室の景色は変わらず暗闇に包まれている。天井には既に寿命が切れ、替えがなくなって放置された電球がぶら下がっていた。黒1色の視界の中、刀子が横に視線を向けると、部屋の隅にあるタンスらしき物体が目に映る。
刀子はこのタンスの中に入っているものを知っている。父が死んでから1度も手をつけていなかったそれは、理恵と約束した今だからこそ取り出せるものであった。
「ねえ、理恵。……私ね、伝えたいことだけじゃなくて、叶えたいこともできちゃったの」
左手を額に当てながら刀子はタンスに手を伸ばす。
そして、そのまま取っ手を掴んだ刀子が力を込めて最下段の部分を引き抜くと、刀子はその中に自らが見知ったものが変わらず入っていることを確信した。
中にあるもののひとつは灰色の箱のような物体。もうひとつは電源アダプタ。そして、最後のひとつは四つの色のボタンが特徴的な骨に近い形をしたコントローラー。
刀子はそれが何であるかを知っている。それは父の形見であり、朝霧屋に来た理恵が興味をもって使っていたものであり、いつか刀子自身も一緒になって使うようになっていた――
据置型の、ゲーム機だった。
「……ふふっ。幸せ者ね、私って」
引き抜いたタンスの最下段を元の場所に戻し、刀子は微かに見える布団に向かって跳躍する。
どすん、と布団の中心で尻もちをついた刀子が辺りを見下ろすと、すぐ下には自らの布団があり、隣には祖母の布団が置かれていた。
刀子は布団に転がるよりも前に部屋の窓へと視界を移す。ガラスの窓から見える空は暗くなりきってていた。時計は朝霧屋には無いけれど、きっと今は22時に近いのだろう。
布団の上で仰向けになった刀子はここにいない誰かに伝えるように「おやすみ」と言って、それからゆっくりと目を閉じていく。
昨日よりも、一昨日よりも、1年前のあの日よりもずっとほころんだ刀子の寝顔を、細い三日月の明かりが淡く照らしていた。
◇
翌日、放課後、2年生の教室にて。
自分以外の全員が教室を去ったのを確認した朝霧刀子は、机の下から据置型のゲーム機を取り出すと、それを自らの腕に抱え、雲ひとつない快晴の空を眺めながら静かにその時を待っていた。
待ち始めてから数分は経っただろうか。ぼさぼさになったオレンジ色の髪を刀子が手で整えていたとき、ふと、扉が叩かれる音が刀子の耳に届いた。
渦巻く感情を抑えず、しかし表に出すことなく胸に抱えた刀子は、数秒、右手で心臓に手を触れてから、扉の方に走っていく。
瞬間、扉が開き、教室の外から見知った少女、理恵の姿が現れた。
約束の時間が来たのだ。
「刀子先輩」
「うん」
「あたし、たくさん頑張ったよ」
「うん」
「答え、決まった?」
「――うん」
抱えていたゲーム機を左腕に移した刀子は、優しい声で問いかける理恵に向かって正面から寄りかかり、自らの右手で理恵の左手をぐっと握りしめる。
理恵は一瞬だけ驚いた顔になり、それから微笑んだ表情になる。その表情を見据えたまま理恵の問いかけに答えようとした刀子は、最初に声にした言葉が微かな音にしかならなかったことに気づいて、出かかった言葉をすんでのところで押しとどめた。
刀子は理恵の目の前で1度だけ息を整える。自分の決意を、はっきりと声に出して告げる為に。
「だいじょうぶ」
――ああ。やっぱり、理恵は強い子だ。
「理恵、私を、ここから連れだして」
刀子に向かって、理恵が強く頷いた。
それが目に焼き付いて、歯を食いしばって涙を流した刀子は、しかし体勢を崩すことなく片腕でゲーム機を抱えたまま、もう片方の手で理恵の手を握り続けていた。
刀子の姿を瞳に収めて、理恵はきのう自らがそうしたときと同じように親指を天に掲げる。
それから、理恵の「うん」という言葉が教室中に響いて。
ふたりは互いの手を握ったまま、教室の外へと駆けだしていく。
先導する理恵と、引っ張られる刀子。
2階に残った生徒をかき分けて、階段を降りたふたりが校舎裏の扉を開くと、草と木々が生い茂る明らかに人の手が加えられていないだろう裏庭と、その裏庭のさらに隅にあるひとつの建物がふたりの視界に映った。
ふたりは1度そこで立ち止まり、互いに頷いてから、互いにまた歩きだす。
草で覆われた地面を踏みしめて、1歩、1歩と建物に近づく度に、握った手の感触が強くなった。
「やっぱり、怖いね」と、互いの声が同時に聞こえる。だけど、もうだいじょうぶ。
その怖さだって、乗り越えられるように変わっていけるから。
建物の目前からふたりが扉を見据える。扉横に貼られた板には「RPG部」の文字が記されていた。
左腕に抱えるゲーム機を取りだして刀子が頷くと、理恵が右手を使って扉を3度叩いた。
鍵の音もなく、扉が向こう側から開き始めていく。
それから数秒後、ふたりの耳にかこん、という音が響いて。そうしてRPG部の扉が完全に開いたとき――
青白い長髪をした少女と、藍色の短髪をした少女のふたりともが笑顔でぶら下げている、小さな横断幕が刀子と理恵の視界の先に見えて。
その横断幕には、決して綺麗とは言えないような文字で、
「朝霧刀子さん、佐藤理恵さん、入部おめでとう。これからもよろしくね。RPG部部長、白宮のぞみ。副部長、立花蘭より」と書かれていた。
(第2話「一人娘は孤独の夢を知った」了)