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「……刀子先輩はきっと、まだ2階のどこかにいるはず」

 

階段を登りきった理恵は「2年教室」と書かれた木の板を見て立ち止まる。

まだ数多い生徒達をかき分け、廊下の中心で右、左と周囲を見渡した理恵は近くに刀子がいないことを確信すると、教室の扉を数回叩き、取っ手を掴みながら呼びかけた。

室内から微かな声が聞こえた。聞き間違えようのない刀子の声だった。唾を飲み込んだ理恵が取っ手を動かして教室の扉を開けると、机の上で髪をかきむしっていた刀子と理恵の視線が交差する。

あのころから何も変わっていないように見えて、どこかいびつで、取り繕いきれていない刀子の優しい顔が1年ぶりに理恵の瞳に映った。

 

「……やっぱり、来ちゃったのね」

「うん。もう会えないかもしれない、なんて思い続けるのはあたしの性じゃなかったから」

 

目を閉じ、唇を噛んで背を向けた刀子に駆け寄って、臆病を押し殺して声を上げる。

ふたりしかいない教室の隅で、理恵の姿が刀子を追い越した。灰色に変わっていく景色の中で、理恵は時間を止めるように足を止めて、自らの背中を刀子の背中に重ねる。あの時、伝えられなかったことがたくさんある。だから、まだ涙は流さないままで。

 

「……私なんかの為に、ひとりで来て。……私なんかの為に、そんな強がっちゃって」

「強がるよ。刀子先輩のことだもん。刀子先輩と話したいこと、たくさん、たくさんあるんだから」

 

刀子のくぐもった声が耳を通る。教室の窓からひときわ眩しい昼終わりの光が射し込み、ふたりの姿が照らされた。振り向かずに言葉を続ける。

中学のころ、刀子に声をかけられて自分がひとりじゃなくなったことを話した。

刀子と友達のような関係になれたこと。事故が起こって笑わなくなってからも同じように接していたかったことと、刀子に「終わった」と言われて、去られてからも刀子と一緒にいることを諦めなかったことも話した。

諦めなかったとは名ばかりで、本当は未練しかなくて、勇気がなかったから今の今まで何もできなかったことだって話して。それから理恵は、いちばん話したかったことを口に出し始める。

 

「あたし、先輩とまた一緒にいたい。ガイアブレイダー、先輩とまた一緒に遊びたいんだ」

「……分かってる。……私だって、理恵と一緒がいい。でも。……でも、ね。私、そうやってふたりきりに

 戻ったら、事故の後、って今の生活、2度と受け入れられなくなる気がして……っ」

髪と服の後ろが擦れる感覚がした。振り返って、今度は顔と顔が触れる。

少しぶりに見た刀子の顔。まぶたが閉じていて、今にも泣きそうな顔になっていた。

両手で抱きしめて、動悸を抑えず言葉を続ける。

 

「っ、ぁ」

「あたし達は戻りにいくんじゃない。ふたりきりになんて、あたしがさせるものか」

「り、え――」

「――だから。あたしが、刀子先輩を、とびっきり優しくて楽しい居場所に連れ出してやる」

 

朝霧刀子。

あたしの、生まれて最初の友達。

自らの苦しさを伝えない為に、あの時、あたしの前から去っていった友達。

もし。

もし、自分の手を刀子先輩に届かせられるなら。

あたしは刀子先輩の腕を強引に掴んででも、刀子先輩がまた笑えるような場所に連れていきたくて。

ああ、そうだ。

あのときあたしの意識の中に芽生えた、形容のできなかった何かは、きっと――

 

「変われるんだ、あたし達は」

 

理恵がすべてを言い終えると、互いの体が強くぐらついた。

黒の長髪の上に水滴が零れ落ちて、理恵は自らの動悸が強くなるのを感じる。線のような何かが頬を伝った。自らの顔が見えなくとも、泣き虫の理恵にはそれが何なのかがすぐに分かった。それは自らが限界まで抑えていた涙だった。

刀子が理恵を抱き返す。それから短くない時間が経って、不意に理恵の視界がぐわんと揺れた。ふらふらと力なく理恵の隣に崩れ落ちていく刀子の支えを失って、理恵の背中は木造りの床に叩きつけられる。

初めて眺めることになった教室の天井は、薄暗い白色をしていた。

 

「馬鹿ね、私って」

「刀子先輩はたくさん頑張ったんだよ。あたしとは比べものにならないくらい頑張ったんだ」

 

横向きになって刀子に寄りかかる。仰向けになっていた刀子が手を伸ばしてきた。

応えるように左手を重ねて握りしめる。刀子の表情は見えないけれど、今はそれでいい。残った右腕を視界の先へ伸ばして、再び天に向かって親指を突き立てる。

薄暗い白色の天井を遮って、ひと筋の影がふたりの景色の中に照らされていた。

 

――それから、何分経ったのだろう。

太陽が傾き始めて辺りが更に薄暗くなるころ、やがて互いの手を放して立ち上がったふたりは、教室の扉の前で再び顔を合わせていた。

流れた何筋かの涙を隠すことなく、理恵は刀子に向かって微笑む。

刀子はその表情を目前で見て片手で頭を抱えたあと、何回かまぶたの開閉を繰り返し、数度深呼吸をしてから、理恵を見据えて声を発した。

 

「ねえ、理恵」

「うん」

「笑えなくなった私の姿をあなた以外に見せるのは……正直、怖いわ」

「うん、分かってる」

「……でも。でもね。私も、理恵のおかげで、ひとつだけ伝えたいことができたの」

「刀子先輩……あ、っ」

「明日、もう1度会いにいく。……答えは、その時に出すから。だから、もう少しだけ待っていて」

「……うん。うんっ。あたし、明日もここに来る。ここに来て、待ってるからっ」

「……ありがとう。またね、理恵」

「またね、刀子先輩」

 

全部の話を終えた理恵は、いつの間にか、取り繕いのない優しい顔に変わっていた刀子に「またね」と告げて、教室の扉をごとんと開けて外に出る。

外には誰もいない廊下が広がっていた。

廊下を歩き続けて少しして、理恵の前に1階に繋がる階段が現れる。階段をゆっくりと降り始めた理恵は、手を振ってくるのぞみと蘭の姿を中腹から見つけると、目を細め、口を大きく開けながら駆け足で階段を降りていく。

こうして理恵は1階にたどり着き、涙を堪えた表情でのぞみと蘭と再会した。

 

「おかえりなさい、佐藤さん」

「おかえりですっ。どうですか、うまくやれましたか、佐藤さ――っ、わ、わわっ!」

「……っ、うっ……くっ、ぁ、あぁ……うっ、うぅっ、うぁ、うあああ……っ!!」

「……ふふっ。……ええ。よく頑張りましたね、佐藤さん」

 

ふたりが両手を上げて理恵の帰りに喜びの声を上げる。

目に焼き付いて、灼けるような思いが理恵の心に灯った。それに身を任せて一直線にのぞみの体に飛び込んだ理恵は、のぞみの受け止めようとする動きより早くのぞみの体に抱きつく。

残った生徒達を片手間に散らした蘭が見守る中、理恵は今まで押さえつけていた涙のすべてを吐き出してから、数分間、のぞみの腕の中で何もかもが満たされたように泣き続けた。

 

「佐藤さん。きょう、これからどうしますか?」

「刀子先輩の歓迎会の準備を始める。その為に、ふたりにお願いしたいことがある」

「はいっ、存分にお願いしていいですよっ」

しばらく経って蘭に声を掛けられた理恵は、額に手をあてて自らの今後を考える。

刀子の笑顔を見る為に、できることがまだ残っている。理恵は感じ始めた疲労を押し込んでいくつかの案を構想すると同時に、階段の近くに置かれた時計に目を凝らす。16時38分を示す時計の針が理恵の視界に映った。

 

「あたしをRPG部の部室まで連れていってほしい。刀子の為に作りたい物があるんだ。

 それと、できればでいいけど、部室に入ったらふたりにそれを手伝ってほしいなーって思ってて」

「もちろん、おーけーですっ。私はいつでも佐藤さんに全面協力ですよっ。立花さんは……」

「私も手伝いますよ。工作なら私の得意分野ですし。それに……何より、久しぶりにのぞみちゃんと一緒に……

​ 色々やれそうですし」

「うん、ありがと。それじゃ、部室までの案内、頼んだよっ」

のぞみと蘭から伸ばされた手を繋いで、理恵は再び歩き始める。

明日までの時間はほとんど残されていない。それでも、ふたりに連れられて裏庭の隅へ向かう理恵が不安の感情を抱くことはなかった。

「緊急任務発令、これよりRPG部は木曜大工作戦を開始するっ! ……なんちゃって、ね。あははっ」

のぞみが扉をかこんと開けて、蘭が真っ先に部室に入る。理恵が蘭を追いかけて走りだすと、のぞみも追随して部室の中へと歩きだす。

傾きを増していく太陽の動きとは反対に、3人の心にはあたたかな熱が灯り続けていた。​

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